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私が米と大豆を真ん中に、食事について考える理由

おにぎり

「楽だから」始まった、米と大豆のある暮らし

私が「お米と大豆」を真ん中に置いて、子どもたちとの食に関する活動や、レシピ、献立を考える理由は、ずばり「楽だから」です。「楽」と言うと少し語弊があるかもしれません。でも、無理がなく、心地よく、疲れない。自分の生活を好きになれそうな瞬間や無理の無い選択を重ねていくなかで、自然とたどり着いたのがお米と大豆でした。

気持ちも、身体も、心も、暮らしも少しずつ不思議と楽になる。米と大豆を真ん中にして生活するようになってから、気づけば毎日がなんだか軽やかになったのです。献立を考えなくても、おみそ汁に季節の食材をいれるとなんでもおいしい、ごはんはおなかにたまりやすく自然と間食が減る、身体やおなかの調子が良くなりなんだか気分も良い、そしてなにより…夫も子どもたちも、ごはんをたいておみそ汁をつくることなら挑戦してみようと思えて助け合える、少しずつ、少しずつ、「なんだかうまく生活がまわっているかも?」という瞬間が増えていったのです。

改めてその理由を考えてみると、日本で暮らす私たちにとって、米と大豆にはさまざまな魅力や利点があり、日々の暮らしの軸となるだけの理由があることに気づきました。そして、米と大豆をおいしく食べ、日々の食卓を心地よく営むことは、日本の歴史や文化、自然観、さらには現代の社会や政治経済にまで視野を広げてくれることもわかりました。ニュースにも勉強にも興味が持てなかった私が、お米と大豆を食べ続けているだけで、不思議といろいろなことに興味がわいて勉強が楽しいと思い始めているのだから不思議です。

もちろん、パスタもパンもうどんもラーメンも、世界中のおいしい料理が大好きです。米と大豆だけを食べようとか、それ以外はどうだとか、そういうつもりは全くなく、ただ、立ち戻る場所や生活の軸として、米と大豆のある食卓を自分の引き出しにもっておくと、暮らしにいろいろな波があっても揺れすぎることなく日々を積み重ねていける気がするのです。

ごはんと大豆から生まれる、さまざまな食材

日本の食卓を考えるとき、米は欠かせない存在です。炊いたごはんとして食べるだけでなく酒や酢などの原料にもなり、さまざまな食文化を支えてきました。大豆からも味噌、醤油、豆腐、納豆、きなこなど、多様な食材が生まれます。加工や発酵によって味わいや保存性、食べ方の幅が広がり、ひとつの食材から実に多くの料理が生まれてきました。

それぞれの歴史をたどってみると、そこには地域の気候や風土、栽培や生産のあり方、保存や加工の技術、人々の暮らし、さらには社会の仕組みまで、さまざまな要素が見えてきます。私たちが毎日当たり前のように食べているものも、長い時間をかけて人々が工夫を重ね、受け継いできた暮らしのなかで形づくられてきたものです。食材は、ただ畑で育ち、食卓に並ぶだけではなく、想像以上の人の手が加わり、自然の恩恵や知恵が重なり、地域の文化と結びつくことでそこにいる人の暮らしに適したさまざまな姿へと変わり、失われることなく受け継がれてきたのです。

食文化から見える世界

同じ食材でも、育つ土地や気候、加工する技術、地域に伝わる習慣によって、食べ方はずいぶんと変わります。食文化は、食卓に上がったお皿の上の料理だけを見ていても十分には理解できないのかもしれません。その食材がどのような土地で育ち、どのような人の手を経て、どのように加工され、どんな暮らしのなかで食べられてきたのか。そこまでさかのぼることで、食材から見える世界はぐんと広がり、そうすると心にも体にもより一層栄養として届くようにも思います。少なくとも、それを知らずに食べるよりもずっと、味わい深く感じられるはずです。

米や大豆については、栽培方法や品種、加工技術、発酵、地域ごとの食習慣など、興味深いテーマが数えきれないほどあります。お米も大豆も風土に適した様々な品種があります。日本各地に多様な品種や食べ方があることは、それぞれの土地の環境や人々の暮らしに応じて、食材が育てられ、生かされてきたことを物語っています。そして、食材を食べられる奇跡を感じられることは、自分が生活できていることの土台を認識することにもつながり、地に足がついたような感覚を個人的には覚えます。

食材の性質を知り、その来歴をたどり、いつも当たり前だと思っているものを、少し立ち止まって見つめ直してみるると、毎日の食事は、単に栄養を補給するための時間ではなくなります。自分が何を食べているのかを知ることは、自分がどのような土地や文化、歴史とつながっているのかを知ることでもあるのです。三度の食事が、自分のルーツをたどるような時間になるという可能性が、毎日の食卓にはあると思っています。

食べることから、子どもたちと世界を知る

こうした食への関心は、子どもたちと一緒に取り組む活動にもつながっています。食について学ぶとき、知識を得ることはもちろん大切ですが、それと同じくらい大切にしたいのは、実際に食べてみること、手を動かしてつくってみること、そして自分の感覚で味わうことです。私は子どもたちとお米を炊いておみそ汁をつくる活動を続けてきましたが、同じ材料同じ人たちでつくっても、2度同じ味にはならないのが一汁一飯の魅力とおもしろさ。それは食材の変化やちょっとした火加減や手加減が味わいとして混じりけなしにでるからです。すると、子どもたちもおのずとその変化に興味を持ちます。

自分にとってのおいしさや、そのときに感じた味や香り、食感を大切にすることは、誰かが決めた正解を覚えるだけではなく、自分の感覚を頼りに違いや発見を楽しむことにつながり、内発的な問いや学びが生まれることにつながります。同じ種類の調味料でも、原料や製法が違えば、色や香り、味わいが異なることがあります。実際に味わい、違いを見つけ、「なぜ違うのだろう?」と考えてみると、その疑問は原料や製法への関心につながり、日本の風土や歴史、地域の食文化への興味へと広がるはずです。さらに、自分はどんな味が好きなのか、どんな香りに心地よさを感じるのかを知ることは、自分自身を知るきっかけにもなるでしょう。

食事の時間には、科学や歴史、地域の文化、生産者の仕事など、さまざまな学びの入り口が隠れているだけでなく、食事という体験から得た学びは一度きりで終わるものではなく、毎日の暮らしのなかで繰り返すことによって、少しずつ深まり、簡単には消えることがありません。

土井善晴先生は、『一汁一菜でよいという提案』の中でこのようにつづられています。

食べ飽きないご飯とお味噌汁、漬物は、どれも人間が意図してつけた味ではありません。ご飯は、米を研いで、水加減して炊いただけ。日本で古くから作られてきた味噌は微生物が作り出したもので、人間の技術で合成したおいしさとは別物です。人間業ではないのです。

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食べることは、毎日の暮らしにある誰もが経験することです。それでいて、お米と大豆、つまりご飯とおみそ汁の中には世界の不思議や自然界の成り立ちが小さく凝縮されているように思います。だからこそ子どもたちには自分の感覚を頼りに、自分の内側から湧き出る好奇心をもって、自然を感じられる食事の中で食材のひとつひとつに目を向けてほしいと願っています。食材について知ることを、「覚えなければならない知識」としてではなく、自分の暮らしと世界のつながりを発見する楽しさとして感じてもらいたいと考えています。

これからの食卓に、何をつないでいくか

食材の歴史を知ることは、過去の人々が、その土地で手に入るものをどのように生かし、どんな工夫を重ねて食べてきたのかを知ることにつながります。食材を無駄なく使うこと。保存できるように加工すること。微生物の働きを生かして発酵させること。土地や季節に応じて、育てるものや食べ方を工夫すること。限られた条件のなかで暮らしを成り立たせてきた人々の知恵を知ることは、昔の暮らしを学ぶだけでなく、今の暮らしのありがたさを実感する機会にもなり、今にも生かせる知恵を見つけることでもあります。

そして、人間の工夫だけでは生み出せない自然の働きに目を向け、その力に委ねながら暮らしてきたことを知る機会にもなります。現代の食卓では、さまざまな食材や食品を手軽に購入でき、多様な料理を楽しむことができますが、米や大豆がどのように生産され、食品へと加工され、どのような仕組みを経て食卓に届いているのかを、日常的に意識する機会は必ずしも多くありません。でも、食事のたびにすこし立ち止まり、思いを馳せることでその情景に心を向けることはできるかもしれません。

どのような食材を選び、誰がつくったものを食べ、どんな食文化を次の世代につないでいくのかを考えることは、農業や地域のあり方、食料の生産や流通、社会の仕組みについて考えることにもつながります。大きな社会の仕組みを知ることも、これからの時代に何を残し、何を変えていくのかを考えることも、食卓について真剣に考えることから始められるのかもしれません。

私にとって、米と大豆を真ん中に置くことは、食べることを通して世界を知り、暮らしを考え、次の一歩を見つけていくための、身近で実践しやすい方法なのです。

参考文献
原田信男著『ユネスコ無形文化遺産に登録された和食 和食の歴史』(思文閣出版)
土井善晴著『一汁一菜でよいという提案』グラフィック社

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