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【米と大豆について考えるvol.2】食べることから、自分と世界を知る|食育とは何か?

日野市に転居しさまざまな出会いがある中で、自分自身が「食育」に関わっているのだと実感する機会が度々ありました。実はこれまで自分が「食育をしている」とも「食育をしよう」とも考えたことはありませんでした。でも初めてお会いする方とお話する際は「食育」や「食農教育」といった言葉を使うと、どうやら伝わりやすいようだと実感するようになったのです。

一方で、「食育」と聞くと、栄養バランスや食事のマナー、好き嫌いなく食べることなどを思い浮かべる方も多いようです。でも、これまで関わり学ばせてもらったエディブル・スクールヤードについて調べてみると、栄養教育だけでなく人間形成も教育のゴールに置いていおり、私自身も食事を入り口として世界とつながり、自分自身とつながることができればという想いで活動をしているので、食に関する教育というよりは、食を通じた学びというニュアンスがしっくりくるように感じています。こんな風に改めて食育について考えてみると、私が食育に関わりたいと思った理由が思いもよらない経験にあったことに気づきました。

生まれた場所を愛せるようになりたい

私自身が食育に関わろうと思ったきっかけをたどっていくと、自分でも驚きましたが、初めて海外に行ったときの経験に行き着きます。初めて訪れた海外の文化は、何もかもが目新しく、刺激的でした。景色も、人々の様子も、食べ物もちょっとした習慣の違いも、一つひとつにドキドキして、心を動かされました。「なんてかっこいいんだろう。なんて刺激的なんだろう」とわくわくしながらも、どこか心はくすぶっていて、そのもやもやを紐解くと、「私はこのドキドキ感と同じくらい自分が生まれ育った国のことを愛せているだろうか。」と疑問を感じている自分に気づきました。

そこから、もっと日本を知りたい、もっと日本に愛着をもてるようになりたいと思うようになりました。そして、日本の歴史や文化、風土について知れば知るほど、その素晴らしさや面白さに気づいていきました。そして、おこがましくも、日本で生まれ育った人たちが「この国に生まれてよかった」と思えるようになったらいいなと考えるようにもなりました。自分の生まれ育った場所に愛着や愛情を感じることは、自分自身のルーツを知り、肯定することにもつながるのではないかと思ったからです。

では、その入り口として何がよいのだろうと考えたときに、たどり着いたのが毎日の食事でした。

自分は食べるものでできている

自分自身と向き合う中で、美容や健康、精神状態など、あらゆることの根幹に食事が関わっているように感じるようになりました。食べるものや食事の仕方、食習慣、食生活によって気分が変わる。そして、毎日の食事の積み重ねによって外見も変わっていく。そうしたことを経験を通じて実感したからです。月並みな言葉ですが、やっぱり自分は食べるものでできている。命は食べることでつながれているのだと、実感を持って考えるようになりました。

では、何を食べたらよいのだろう。食事について改めて考え続けたときに、特定の食材や食べ方に固執するのではなく、自分の身体や心が欲しがるものを大切にしたいと思うようになりました。でも、情報も刺激も多い毎日の中では、脳や思考や広告に影響を受けて「食べたい気がする」ものを口にしてしまうことも少なくありませんでした。自分の身体や心が安定するものを「欲する」ように、そしてその「欲しているもの」をしっかりキャッチできるような状態を維持したいと考えるようになった時、結局自分が生まれ育った国の伝統的な食事が自分の身体や心にしっくりくるように感じました。

さらに紐解いていくと、自分のすぐそばで、ついさっきまで生きていた命を、自分の命につないでいく。そんな地産地消の食べ方が、いちばん自分の身になり、活力になるように思えたのです。もちろん、新鮮であることもおいしさの理由の一つですが、それ以上に、命との距離が近い食べ物を食べると自分自身が元気になるように感じ、食事とはまさに命をいただいていることなのだと実感するようになりました。

加工されすぎたものよりも、シンプルなものの方が力になりやすい。そして、シンプルでおいしいものは、育て方や調理の仕方もシンプルだったり、理にかなっていたりすることが多いという気づきは、人々が受け継ぐ風土や智慧に目を向けるきっかけとなりました。

食べ物の向こう側にある物語

食べ物の背景にある物語を知ることも、食事の味わいを深めてくれるように思います。同じ食事をしていても、旅行先で食べるものと普段の食事とでは、なんとなく味わいが違うことがありますが、それは食べる自分自身の心や視線の向け方に理由がある気がします。お茶一杯だって、ごはん一杯だって、少し立ち止まって食事の背景にある物語を感じながら味わうと、いつもの食事も、より味わい深くなるのではないかと思うのです。たとえばカップラーメンだって、誰かがやかんでゆっくり時間をかけてお湯を沸かして作ってくれたら、いつもとは違う味わいがする気がします。誰と、どんな場面で、どんなことを感じながら食べるかによって、感じ方は変わるのではないでしょうか。

以前、90歳を超える助産師さんが、産後のお母さんにソーセージと卵を食べさせているシーンをテレビか何かで目にしたことがありました。産後というと栄養面に敏感になりそうで、なんとなく加工肉は避けそうなイメージがありました。でも、その食卓はなんだかとってもおいしそうで、とってもパワーが湧きそうで、とっても愛情を感じるものでした。実際に、お母さんはとてもおいしそうに、幸せそうに口にしていました。産後の不安や焦りや大変さに寄り添い安心させてくれるような力強さがあったのです。栄養学的な説明や理屈だけではなく、そこには産後のお母さんに食べてほしい、元気になってほしいという思いや、長年の経験からくる食事の知恵があるように感じました。その様子からは、食べ物そのものだけでなく、そこにある思いやストーリー、温度までもが、食事の味わいにつながっているのかもしれないと思わせる何かがありました。

そんな経験から、背景を思わせる食事といえば、やはりその土地や、食べ物を受け継いできた人の手が感じられるものを食べることが大切なのではないかと考えるようになり、郷土食や伝統食、家庭料理に興味がわくようになりました。なぜこの地域では、この料理が食べ継がれてきたのだろう。その土地では何が育ち、どんな暮らしがあり、どんな工夫が必要だったのだろう。食べ物の背景を知ることは、その土地の歴史や文化、社会や経済を知ることでもあります。食べるという行為は、食べ物と一緒に、その背景にある歴史も文化も経済も社会も、一緒に口にしているのかもしれないな、と考えるようになりました。

食べることは、奇跡を体感すること

食べ物には、たくさんの奇跡が重なっていると思います。小さな種から何百倍もの実りが生まれることや、土や水、太陽、微生物など、人間の力だけではつくり出せない自然の力。長い時間をかけて育った命を自分の命にかえながら生きていること。そして人間が何世代にもわたって育て方や加工方法を受け継ぎ今があること。米と大豆が育ち、収穫され、加工され、発酵し、ごはんや味噌汁になるという一つひとつは実は奇跡の連続で、たくさんの自然の力と人間の智慧が詰まっていると感じています。そしてその奇跡を感じることは、自分自身が今日も生きていけることの喜びを(どんなに悩んだり不安があったとしても)感じることにつながるように思うのです。

そもそも、土は人の手ではつくれません。私たちは「作物を作る」と言いますが、厳密には、人間が作物そのものを作っているわけではないのだと思います。人間にできるのは、種をまき、土に触れ、環境を整え、世話をし、できるかぎりのことを考えて手をかけること…芽を出し、育ち、実るということは、人間だけで成し遂げられるものではない…むしろ自然の営みに手をかける行為をして自分自身の生活に必要な収穫物をつくろうとする行為をしているのだと、少しずつ実感しています。私自身もまだまだ勉強を始めたばかりでわからないことだらけですが、育つまでにかかる時間や、天候や土の状態に合わせた手加減、言葉では説明しきれないちょうどよい塩梅など、頭で知るだけではわからないことがたくさんありますし、頭で考え始めると自然ってなんだ、人間って何だと沼にはまることもしばしば。

自然との対峙からうまれる田畑でのことは、気づけば何となく水やりのタイミングが分かった気がしたり、記憶しようとしていなかったのに何かを覚えていたり、自分では意識していなかった情報まで、経験として身体や心に蓄積されていくから不思議です。自分の手で育てる経験は、何かを知るためだけではなく、むしろ、わからないことを、わからないままにしておけるようになることにも意味があるのではないかと感じたりします。

自然はいつも思いどおりになるわけではなく、きちんと理由はあるのでしょうが、なぜそうなるのか、すべてを理解できるわけでもないような、待つこと、見守ること、受け入れることを必要とされるような…人間がすべてを理解し、管理できるわけではないということを、自分の身体を通して知る。そんな経験も、食べ物を育てることから得られる大切な学びなのではないかと考えたりもします。

知ることから、愛着が生まれる

さて、知ることは、どうして愛着につながるのだろうか、とこうして自分自身の経験を振り返りながら考えました。ただ知識が増えるだけでは愛着はわかないような気がしますが、そこにある一つ一つの情報に、受け継いできた人や歴史の温度を感じられると、とても興味や大切さを感じるように思います。

文化も歴史も、決して教科書の中だけにあるものではなく、はじめからきれいな記録だったわけでもなく、そこには一人一人の人がいて、それぞれの暮らしがあり、物語があります。その土地で生きてきた人たちが、自然と向き合い、工夫し、食べ物を育て、料理をつくり、次の世代へと受け継いで、その延長線上に私たちの暮らしがあると考えると、何気なく食べているものや、当たり前だと思っていた文化にも、違った見え方が生まれます。

ただ知識として知るのではなく、その背景にいる人の存在や思いを感じること。それが、自分の暮らす土地や文化への愛着につながっていくのではないかと思います。自分がどこから来て、どんな自然や文化、人々の営みに支えられて今ここにいるのかを知ることは、自分自身を知ることでもあり、自分の足元にあるものを知り、そこに愛着を持つことは、自分自身のルーツを肯定し、自分自身にも愛情を持つことにつながるのではないかと思うのです。

子どもたちに残したい食の体験

だからこそ、子どもたちにも、食べ物を育てるところから食べるところまでを体験してほしいと思っています。米を育て、大豆を育てる。収穫し、加工し、料理し、自分たちの食卓に並べる。その過程で、自然の力や人間の智慧、地域の歴史や文化、社会の仕組みを知る。そして何より、自分たちが食べているものが、たくさんの命や人の手、長い時間の積み重ねによって成り立っていることを、自分の身体で感じてみてほしいと思います。

食育は、栄養や食事のマナーを教えることだけではなく、食べることを通じて、自分の暮らす土地を知り、そこにある文化や人々の営みを知り、自分自身が何に支えられ、何とつながって生きているのかを知る。そんな経験を通して、自分の足元にあるものに愛着を持ち、自分自身にも愛情を向けられるようになったらいいな…と思っています。

私は、米と大豆を育て、収穫し、食べるという一連の体験を通して、子どもたちが食べ物の向こう側にある世界と出会える機会をつくっていきたいと考えています。それは、農業の知識を身につけるためだけでも、日本の伝統文化を覚えるためだけでもなく、自分の手で土に触れ、命を育み、食卓をつくるという経験を通して、自分の暮らす土地を知り、そこに愛着を持ち、自分自身のことも大切に思えるようになってほしいと願うからです。食卓を世界への入り口として、自分自身とつながり人生を歩んでほしい、そのための学びを、子どもたちと一緒につくっていきたいと思っているのだと気づきました。

この記事の著者

ひかる  

2児の母。慶應義塾大学卒業後、企業勤務を経てレシピ開発・執筆に従事。生産者取材を通じ食の背景と体験の価値を探究。現在は東京都日野市で「おこめとおだしのある時間」を主宰。食べものを入口として、自然や人、地域とのつながりを探究する学びの場づくりをしている。

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